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詠い継がれる人や出来事

クムリポは、しばしばハワイ創生のチャント(詠唱)と呼ばれ、サンゴのポリプの話からはじまる。

詠い継がれる人や出来事

     

クムリポは、しばしばハワイ創生のチャント(詠唱)と呼ばれ、サンゴのポリプの話からはじまる。すべての創造物は、このごく普通の生物体を起源としているという。16連以上からなるこの叙事詩は、ハワイ島の南コナの神格化されたチーフ(族長)であるロノ¬-イ-カ¬-マカヒキの系譜を細かく述べたものだ。そこには宇宙の最初の目覚めから人が誕生し、祖先に至るまでの家系が描写されている。クムリポは数多い系図を詠ったチャントのひとつに過ぎない。だが、ハワイの歴史上もっとも重要なチャントとされている。近世では位の高い2人のチーフが死んだときや、キャプテン・クックがハワイに到着したときなど、大きな出来事が起こった際にこれが詠唱されている。またデイビッド・カラカウア王は、ハワイ民族の王権継承を確実にするために、このチャントを使った。

     

このような影響力のあるチャントが、ケアラケクアを発祥の地としていることは疑う余地もない。ここはロノ¬-イ¬-カ¬-マカヒキの生誕地であり、生命の起源そのものを具体化するかのようにサンゴが豊富だ。まさにエネルギーと詩情が満ちあふれている場所なのである。

     

現在、多くの人が、ここが1779年にキャプテン・クックが上陸し、殺害された場所であることを知っている。旅行者はクック船長に敬意を払って建てられた記念碑を訪れはする。だが彼らの興味は海軍史よりもむしろ、ケアラケクア湾の活気ある海洋生物にある。この開発の手が入っていない穏やかな海岸線には、過去を偲ばせる手がかりとなるものはほとんどないと言える。

戦いの季節と祭りの季節

     

ケアラケクア湾で落ち合ったとき、「クックの話はしたくない」とシェーン・アコニ・ネルソンさんは言った。240年の間、英国の探検家はこの地に長い影を落としてきた。ネルソンさんのようなカマアイナ(ハワイ生まれ)にとって、クックは今なお書き継がれ、チャントに登場するダイナミックな歴史書の擦り切れるほど読まれた1ページであり、すでに周知の話だからだ。

     

ネルソンさんは湾の駐車場で、汗にまみれた州の職員たちに軽く挨拶をした。彼らはヒキアウと道路の間に仕切りを造る作業に従事していた。ヒキアウは海辺にある何百年も前の石のヘイアウ(神殿)だ。私たちがいる方角から見ると、ヒキアウは何の変哲もない小さな角錐台で、数台分の駐車場と侵食が進む海の間に押し込まれているように見える。セメントの防潮堤に波が打ち寄せ、ヘイアウの壁に水しぶきがかかっていた。

     

クックが到着した1700年代の終わりごろ、南コナはハワイ諸島の中でもっとも人口の多い地域だった。ナポオポオ村のヒキアウ近辺や、湾を挟んだ向かいにある王族の居住地カアワロアなど、ケアラケクアには何千人もが住んでいた。偉大な戦士カラニオプウは、甥のカメハメハとここに住み、ナポオポオの丘の上の決戦で島征服の野望に着手した。ヒキアウには戦の神クーと、平和と豊かな収穫の神ロノの両方が祀られている。

     

ロノが支配する冬の季節は、にぎやかな渡り鳥の鳴き声や、土砂降りの雨、雷、激しく打ち寄せる波の音で代表される。毎年11月、星がロノの帰還を知らせると、マカヒキと呼ばれる4カ月に渡る祭りがはじまり、仕事も戦も休みとなる。島民たちは毎日ゲームやフラ、レクリエーションで時を過ごす。魚釣りや収穫は、カプと呼ばれる厳しい掟で管理され、政務は季節に左右された。ネルソンさんによると、マカヒキの季節には万物が芽生え、産卵するため、人間はほとんど活動しなかったという。

     

ネルソンさんはヘイアウを通り過ぎ、林に通じる道に私を案内した。私たちは小さな池のほとりの生い茂る草の上に座った。その池は、かつてここに住んでいた多くの人たちの水源のひとつだった。浅い池の底には表面が滑らかな小石が敷き詰められており、地元の人たちは時折、この池を養魚池と呼んでいる。しかしネルソンさんは、この池は、亡くなったチーフの骨を洗うなど、もっと神聖な目的に使われたと信じている。ハワイアンの伝統では、イヴィ(骨)には死んだ人のマナ(生命力)が宿るとされ、アリイ(王族)の骨は洗浄後、どこかに隠す習慣があった。湾の向かい側にある急勾配のパリ(崖)は、埋葬に使われたほら穴と鳥の巣でハチの巣のようになっている。

     

ケアラケクアの陸と海には、古代の財産と、現在もなお生きる多くの宝がある。何百という考古学上の特徴のほかに、ハワイ固有の希少な海鳥、コウモリ、魚類が生息しているのだ。日中はハシナガイルカがひと休みし、夜間はイトマキエイが餌を求めて集まってくる。ハワイ州は数年間、ケアラケクアの豊富な自然資源を管理するためのマスタープランに取り組んだ。そして環境影響調査の結果を調べたネルソンさんは、それが不十分であることに気づいた。「調査には生存中のカナカ・マオリ(先住ハワイアン)が含まれていなかったし、すべてが過去形で書かれているんですよ!」と憤慨する。

     

ネルソンさんの話はウリリに邪魔をされた。ウリリは沼地に急降下し、うるさい声で鳴いた。ウリリがコウの木の低く垂れた枝に止まると、たくさんのオレンジ色の花が暗色の池の水面に散った。ネルソンさんはその幸先の良い光景を見て喜んだ。ウリリはメッセンジャーで、コウの花はパワーのあるキハワヒネ(トカゲの女神)とされている。「これはマオリ(土地に根差したもの)の最高潮の瞬間だ」とネルソンさんは感動していた。

地名の由来を聞かされていた叔母

     

ネルソンさんの叔母のひとり、モナ・カヘレさんは、不況の時代にナポオポオで育った。生来の歴史家だったカヘレさんはアンティやテューテュ・ワヒネ(祖母)の足元に座って、彼女たちの過去の日々の話を記録した。話題は難破船、サメの神、火の玉、ほとんど忘れかけた場所の名前など多岐にわたった。

     

カヘレさんの回想録「記憶の雲」の中に、ケアラケクアの名前の由来について叔父から聞いた話がある。遠い昔、サメの神クアがカプカプ(ケアラケクアの旧名)にやってきた。クアは人間社会で男として暮らし、漁業や農業に従事し、カヌーを造った。カプカプを去る日がきたとき、友人たちは別れを惜しんで悲しんだ。クアは彼らに向かって言った。「ここで私は訪問者ではなく、身内のひとりとして待遇された。これからあなたたちは、水の中ではいつも安全でいられるようになる。私はいつの日か、太陽が輝き水平線が黄金に見えるとき、ここに戻ってくる」。サメの姿に戻ったクアは水に潜り、ヒレをゆっくり動かし日没に向かって泳いで行った。それ以来人々はクアの歩いた道を、神の道「ケ・アラ・ケ・アクア」と呼ぶようになった。

島民たちが掌を反した理由

     

1779年1月17日、キャプテン・ジェームス・クックが指揮するHMSレゾリューション号とディスカバリー号がケアラケクア湾に入港した。900隻を超えるカヌーが海上で彼らを迎え、陸ではその10倍もの人たちが待っていた。「海上の1カ所に、こんなに多くの人が集まったのをこれまで見たことがなかった」とクックは航海日誌に記している。

     

クックが到着したのは、偶然にもマカヒキの季節だった。さらに偶然が重なったのは、クックが冬季の来賓、ロノに似ていたことだった。その上、クックが率いる船の白い帆は、ロノの神官たちが携行する長旗にそっくりで、大砲と銃の音はロノの雷鳴と稲妻に似ていた。船員たちは船の甲板から、白いカパ(木の皮で作った布)で包んだレレ(タワー)とヒキアウの上に多くの供物が積まれているのを見た。

     

地位の高いチーフがクックと将校たちをヘイアウに招き、クムリポを朗唱し、豪華な食事で歓待した。当時支配者だったチーフ、カラニオプウは、クックに親善のしるしとして現代の博物館に展示されているような価値ある羽毛のケープとヘルメット、木彫のキイ(神聖な像)、サメの歯の武器、骨と真珠貝で作った釣り針、編んだマット、ボウル、楽器を贈呈したほか、英国船の擦り切れたロープを取り替えるための縄を進呈した。

     

ハワイアンは贈り物の代わりに、斧、ナイフ、釘をはじめ、道具や武器に使えそうな鉄くずを、可能な限りかき集めた。島は長年戦闘状態にあり、マカヒキの停戦4カ月目はそろそろ終わりに近づいていた。カメハメハをはじめ野望に燃えるチーフたちは武器を蓄え、同盟を結んだ。2週間の間にレゾリューション号とディスカバリー号の乗組員は接待役を疲弊させた。その上、船員たちは大きな罪を犯したのだ。ヒキアウの隣の野営地でワヒネ(女性)たちと交わり、神殿のカプ(禁止令)を破った。さらに悪いことに、ヘイアウの木の柵を勝手に薪として使った。外国人たちが次の港に向かって出港するのを見て、カラニオプウは大きく安堵したに違いない。

     

数日後、マストが折れたクックの船がのろのろとケアラケクア湾に戻ってきたとき、湾には人影もなかった。マカヒキは終わり、戦の神クーが戻っていたのだ。ハワイアンたちは明らかに挑戦的で、機会あるごとに石を投げ、盗みを働いた。船の小艇が盗まれた後、クックは10人の海兵とカアワロアに上陸した。小艇を取り戻すまでカラニオプウを人質にしようと考えた。しかし、英国の水夫がカヌーに乗っていたチーフ、カリムを射殺したという話が伝わり、海岸で争いがはじまった。クックは背後から撃たれ、4人の海兵とともに死んだ。報復として、英国人は砲丸を村に向かって曲射し、ヘイアウに火をつけたのだった。

泳いで米国船に乗り込んだ少年

     

この沿岸地帯に住んでいた人たちは、ハワイの中で異文化との接触によるもっとも激しい文化の変容を体験した。ケアラケクアはハワイアンが外国の勢力と衝突した初めての場所であっただけでなく、牛馬、コーヒー、キリスト教が最初に持ち込まれ、繁栄と伝播の足がかりをつかんだ場所でもあった。

     

1793年、かつてクックの一行で海軍士官候補生だったジョージ・バンクーバーは、船長として自分の船を指揮してハワイに戻り、カメハメハに長角牛4頭を贈った。これはパニオロ文化の発祥とハワイ固有の森林破壊という長所と短所をもたらす結果となった。コーヒーがこの地域に紹介されたのは1828年で、以来南コナの景色と経済は変貌した。キリスト教の種が最初に蒔かれたのもこの地で、ヒキアウで神官になる訓練を受けていたひとりの少年の心を捕らえた。

     

1807年、15歳のヘンリー・オプカハイアは、ヘイアウでの学習を放棄し、泳いで湾内の米国船に乗り込んだ。高位の神官となる訓練を受け、叔父の後継者になるはずだった少年は、ハワイ初のキリスト教改宗者となった。オプカハイアはトライアムフ号に乗って希望峰を回り、コネチカット州ニューヘイブンでキャプテンの家族と暮らした。英語、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語の読み書きを修得し、旧約聖書『創世記』をハワイ語に翻訳した。この作業にはハワイ語のアルファベット、辞書、文法を考案する必要があった。

     

オプカハイアはハワイに戻って宣教を指揮する計画だったが、船の出港を前に腸チフスで死亡した。26歳だった。代わって18人の宣教師が派遣され、1820年にコナに到着した。プリンセス・カピオラニがカアワロアに彼らの教会を建てた。この教会は後に湾の向かい側に移転し、現在カヒコル組合教会として知られている。オプカハイアの遺体はここに埋葬され、ケアラケクア湾を見下ろす場所に墓石が建っている。

もう一度、接触前に帰る

     

ネルソンさんは高校2年のとき、ナポオポオの家にひとりで住んでいた祖母と一緒に暮らした。亡くなる前の5年の間に、彼女はキリスト教から先祖の宗教に戻った。

     

「そのことが自信につながった」と語るネルソンさんは、カホオラウェ島とモロカイ島への旅をし、すでにハワイアンの宗教的慣習を実践している。その後、著名なクプナ(年長者)であるエメット・アルリ博士が、ヒキアウでマカヒキの儀式を復活させるようネルソンさんに話した。ネルソンさんは2010年に、少数の文化実践者とともに、これを実行に移した。現在ではおよそ80人が、通年で行われている祈りや星の観察、ホオクプ(供物)用の植物栽培などの活動に参加している。「小さなことでも先祖から伝わるスピリチュアルなことを続けていけば、自分自身の成長に役立つ」とネルソンさんは確信している。

著者 シャノン・ウィアネッキ

写真提供 メーガン・スペルマン

March 9, 2021